
あの頃の海水浴列車
~昭和40年代中頃のこと・・。
当時、幌内線などという地方線区にも季節になると、海水浴臨時列車が運行されていました。石炭産業も既に斜陽化していましたが、炭砿町であった故郷にもまだまだ活気が有り、ヤマ元には、大勢の炭砿従業員とその家族が生活していたのです。とある夏、私達一家もこの蘭島行「海水浴臨」で、海水浴へ行くことになったのです。とにかく嬉しかった。海水浴がしたくて行くのではなく、汽車に乗りたくて。
当日の朝、唐松駅は大混雑でした。地方の小駅に似つかわしくない数百人の人々が、ホームで列車の到着を待っていました。まだか、まだかと首を長くしていると、来たっ!春光町の崖下に機関車に引っ張られた長編成の客車が見えてきました。列車が身をくねらせて分岐を渡ってくるのが、人々の隙間からちらりと見えました。牽引機は何とD51重連でした。機関車が眼の前を通過し、カマの熱気が頬に伝わります。そして、ブレーキを軋ませながら、編成はホームに滑り込みました。
編成は全く雑多。32系、35系、60系等、色んな客車区からの寄せ集めだったに違いありません。もしかしたら内地からの借り入れ車輛もいたかも。中には青塗装の客車がいましたが、残念ながら乗車したのはこの客車ではなく、多分、62系ではなかったかと思います。一応、全車指定であったような記憶があります。きっと、中には背摺りが板の60系車に、当たった人がいたのかもしれませんが、幸か不幸か、この手の客車に乗った記憶がありません。
座席に着き、早速窓を開けます。間も無く定刻となり汽笛二声。序々に加速していきます。ドレンの蒸気が頬をくすぐる。芳しい煙の匂い。蒸機列車に乗った時、一番心躍る瞬間でしょう。栄町の踏み切りを通過して間も無く、通称一(いち)マイルと呼ばれる付近に、幾春別川と並走する区間があります。ここの緩やかな右カーブの前方を見ると、重連のD51が煙をたなびかせ、私達の乗った客車を快調に牽引しているのが見えます。
ややあって、三笠に到着。ここで幌内から来た客車を増結したような気もするが、定かではありません。平坦線でD51をもってしても重連の必要があったということは、12,3輌かそれ以上の長大編成であったかもしれません。牽引力では単機で充分なのだろうが、退避線に納まらない、云わば「殿様列車」であったので、急行列車並みの速度で運行するための措置だったのでしょうか。
途中、主要駅には停車したような気がしますが、このあたりの記憶はありません。銭函を過ぎて右側に海が見えてきます。幾つかのトンネルを、くぐって小樽に到着。この先はC62重連が走り抜けた、あまりにも有名なあの行路です。余市を過ぎ、間もなく目的地の蘭島到着。列車から降りた何百人の人がぞろぞろと海水浴場に向かいます。
海の記憶もあまりありません。前にも言ったように海水浴など、どうでもよく、むしろ嫌いなくらいだったのですから。ただ、帰り際には小雨がぱらついていたのは憶えております。帰り支度をして、駅へ向かい、列車に乗り込みました。客車の山側のボックスに座ったことは、はっきりと憶えております。隣の線には貨物列車が停車していました。ちょうど私の窓の外には、その牽引機、半流のD51がデンと居座っていました。そのナメクジドームの、油煙に弾かれ滴り落ちる雨粒が、どういう訳か心に焼き付いております。

