幌内線の客車列車
昭和45年当時、幌内線の旅客列車は上り下りそれぞれ気動車4本、客車5本が設定されていました。道内の支線区間では客車列車が唯一運行されていた貴重な線区だったのです。しかも後述する624レは堂々8輌の「長大編成」であったのです。前年までは、万字線でも客車列車がありましたが、45年度に入って全て気動車化されてしまったようです。輸送量の少ない支線では、短編成では運行コストの低く、折り返しで機関車の付け替えの必要の無い気動車に、置き換えられていく趨勢にありました。ではなぜキロ程20kmに満たない盲腸線に客車列車が残ったのでしょうか。

昭和45年10月の時刻表から抜粋したもの。
ユーモラスなSLマークが懐かしい。
牽引機はヨンサントオまではC11とD51が使用されたいたが、その後D51だけになってしまった。
幌内支線の運用については「スハニ62」の項を参照のこと。三笠・幌内間は上下合わせて僅か5本になっている。
この2年後の昭和47年11月には旅客営業が廃止されている。
これには二つの理由があると思われます。一つ目として、幌内線は客車区を擁する岩見沢から直接分岐していたいたことにより、客車運用の効率が良かったこと、二つ目は通勤、通学客が比較的多かったのです。当時、幌内線全体で※4,556人/日の利用者がおり、特に朝夕は市内にあった「北海道立三笠高校」と「三笠市立三笠高美高校」の2校の通学客でラッシュ状態であったようです。また逆に、市外への通勤・通学も多くありました。この乗客輸送のため、624レなどは堂々8輌の「長大編成」であったのです。周知のように客車列車は連結輌数が多くなるほど気動車に較べて運行コストが有利になります。また、折り返し駅である幾春別駅は住友奔別鉱からの、年間100万トンの石炭の発送があって、40名ほどの駅員が配置されておりました。機関車付け替え作業要員に余裕があったことも副次的要因かもしれません。
※幌内線年間乗車総数は一般客/942,428人 定期客/720,678 という統計が残っている。
当時の幌内線客車運用表です。岩見沢・幾春別間の客車は「札31」「札33」の二本立てで運用されていました。

朝、夕の通勤・通学の時間帯には上り624レの8連、下り633レの7連が圧巻です。624レは岩見沢21:50発の幾春別行き最終列車の639レとして走り、幾春別で一夜をあかして、7:00幾春別発の2番列車となります。昼間の閑散時間帯でも629レなどのように6連もありましたが、621レ・622レのように3輌のこぢんまりした編成も運行されておりました。ちょっと興味深いのは、札31運用で長駆倶知安まで運用されていたことです。しかし、1編成では運用出来ないので2編成設定されておりました。客車の形式は、鋼体化の60系中心ですが、32系あり、35系ありの割とバラエティーに富んでいます。
昭和45年10月当時の岩見沢区客車配置表です。

車輛の装備の情報も盛り込まれています。外部の塗色・暖房種類・発電機・蛍光灯装備・座席背摺種類が読み取れます。模型の良い資料になるかと思います。